枢軸の形成と第二次大戦への参戦 {ファシスト党・イタリア・社会}
1935年のエチオピア侵攻によって国際的に孤立していたイタリアは、1933年に国際連盟を脱退して孤立の度を深めていたナチスドイツと結びつく余地があった。
独伊はその後、1936年7月にはじまったスペイン内戦に揃って介入し、同年10月にいわゆるベルリン・ローマ枢軸構想を掲げた。
1937年には国際連盟を脱退している。もっとも、オーストリアを自国の勢力圏と考えていたムッソリーニは、38年3月のアンシュルスには、内心、相当な難色を示していたという。
1939年4月イタリアがアルバニアを併合すると、再び英仏を中心として大きな非難を呼び始めた。
これに対抗するべく5月には独伊軍事同盟条約に調印した。
ただし、同年9月ヒトラーのポーランド侵攻によってはじまった第二次世界大戦勃発は、ムッソリーニにとっては誤算だった。
イタリアはイギリスとの交渉を根気強く進めていたのだが、ポーランド侵攻によって、それまでのムッソリーニの努力は水泡に帰し、英米などの世論もファシスト党を世界平和を乱す社会悪と認識していった。
独伊はその後、1936年7月にはじまったスペイン内戦に揃って介入し、同年10月にいわゆるベルリン・ローマ枢軸構想を掲げた。
1937年には国際連盟を脱退している。もっとも、オーストリアを自国の勢力圏と考えていたムッソリーニは、38年3月のアンシュルスには、内心、相当な難色を示していたという。
1939年4月イタリアがアルバニアを併合すると、再び英仏を中心として大きな非難を呼び始めた。
これに対抗するべく5月には独伊軍事同盟条約に調印した。
ただし、同年9月ヒトラーのポーランド侵攻によってはじまった第二次世界大戦勃発は、ムッソリーニにとっては誤算だった。
イタリアはイギリスとの交渉を根気強く進めていたのだが、ポーランド侵攻によって、それまでのムッソリーニの努力は水泡に帰し、英米などの世論もファシスト党を世界平和を乱す社会悪と認識していった。
update:2010年03月06日
